小学4年生の頃、母が捨てようとしていた蓋のついた缶を拾った。
地味な色の缶は丸くて味気ない。
蓋も落ち着かずパカパカすぐに開いてしまう。
わたしは小さくなりコロコロ転がる消しゴムらを入れるのによいかと拾い上げたのだ。
あれから40年間、実家に帰省するたびにライティングビューローの天板を引くと
その缶は顔を出し当時の消しゴムをいれたまま暮らしていた。
そうかそうかとわたしは当時と変わらないことを確認して終わるだけで
その缶の素性など気にもしないでいた。
昨年、友人の年越しの食事の席に行った際、好物の栗鹿ノ子が運ばれてきた。
美味しいと歓喜するわたしに出来合い物だとその入れ物の容器を見せてくれた。
なんと40年も見てきた例の消しゴムの家ではないか。
わたしは何だか無性に可笑しくなった。
不出来な缶だと小馬鹿にしていたので、これが好物の栗鹿ノ子の住まいだったとはなぜ40年も知らなかったのだろう。
今年はニンマリと笑みをこぼし、初めて自分でパカパカ開く蓋の不出来な缶を買い求めた。
缶に綺麗に印刷された栗のデザイン、つや消しの触り心地....あれまなんと意識レベルの高い缶なのか。
缶底を見ると「缶・化粧蓋」と書いてある。
化粧蓋、聞きなれない言葉だがなんとなく合点がいった。
パカパカ開くのは保存用途ではなく、缶に添えた化粧の程度ですよ、という意図が伝わってきた。
ご丁寧なその表現を缶底に書いていたのはいつからなのだろう。
知る由もないが、きっとパカパカ開く不出来な缶になんの役にも立たないと思い
わたしのように消しゴムを入れる程度の人が他にもいたに違いない。