一人では引き戸を引くことも、席に腰かけることも憚る店に人の縁で初めていった。
それがきっかけで一人で行くようになったが
45年続くその銀座の老舗の店の女将は着物姿でなんら気負いもなく相手をしてくれる。
女将は私の母より1歳だけ若く、女将の旦那様は父と同じ昭和9年生まれだったこともあり、
わたしは女将をお母さんと呼んでいる。
いつもお母さんは一人で店にいると古いラジオをかけながら、小さな折り紙で千羽鶴を折っている。
先日「美味しいくさやが入ったよ」と珍しく向こうから電話が来たので、出向くと更に小さな折り紙で千羽鶴を折っていた。
「そもそもお母さんは何故鶴を折っているの」尋ねるとカウンター越しなら「ボケ防止よ」と返すのに
その晩はカウンターでなかったからか真面目に応えてくれた
「3年前に、本当にとても人生で辛いことがあってね。それで何かせずにいられなくて、
そうだ千羽鶴でも折ろうと思って始めたの。すると奇跡が起きたのよ。
千羽鶴は願いが叶うというでしょ、本当だなって思ってね。それで今は人にあげるのに折っているの」
お母さんが数年前に咽頭癌を手術したことがあるときいていたので「奇跡って癌が無くなったこと?」と問うと
すぐに返事をせず「あなたが本当に辛くなった時が来たらお話するわね」といった。
4時間ほど2人で鶴齢という新潟の酒を酌み交わしていたが、わたしは心でずっと泣いていた。
何故かわからないがお母さんがしきりに「あなた、愛する人がいたら明日のことその先のことなど考えず
今日を大切に生き、相手のことも今日を精一杯愛しなさい。過去の人は過去、過去のことも過去。
今日を精一杯愛して、幸せになりなさい」
お母さんはわたしの瞳を深く覗いて、澄んだ綺麗な目で言った。
その晩、お母さんは今は天国にいる常連さんの話を懐かしそうに話してくれた。
誠に面白く豪快で魅力ある人たちに愛された店で、お母さんなのだと思う。
それから数日して、ある方からお母さんの旦那様がこの夏に亡くなったと聞いた。
45年前に旦那様が始めたお店。
あの晩、お母さんはいつ閉めようと締めどきを考えているような気がした。
この店を愛してくれた常連さんに恥じないように終らせたいと言っていたから。
わたしはお母さんのことを想って千羽鶴を折り始めた。