一隅を照らす、してみよう

一昨年、30年以上の心友が脳の癌で天国に旅立った。

癌とわかる数年前、その心友と好きな禅語は何かと語り合ったことがある。

物静かで芯のある彼女は「一隅を照らす」を選んだ。

私は喫茶去。喫茶去の解釈はいろいろあるのだが、私の好きな解釈は茶席で「お茶でも召し上がれ」という内容の禅語で、来客があれば、だれにでも分け隔てることなくお茶を提供する、「無心」を意味する。茶道においては、来客の身分や肩書、老若男女にかかわらず、平等に接する「心の在り方」を意味する』。

「私は大きなことはできないけれど、自分らしく生きているだけで誰かの役に立てれたらと思って」そうはにかみながら彼女は言っていた。

コロナ禍にホスピスケアで極数人に看取られて逝った彼女は、私との最後の電話で「あのね、もう長く生きられないの。本当にこんなに幸せな思いになれるなんて、何もかもすべて仕立てられたみたいなのよ」と電話で話してくれた。

彼女のような人、私のような人も、そしてこの地球にいる人々もそれぞれが命というエネルギーを与えてもらいこの世に人として存在していることの尊さを思わずにいられなかった。

人として生まれ続けている奇跡の連鎖。

彼女の言っていた「一隅を照らす」ことはこの鎖の一部であればよいということだったのかもしれない。

そう思いながら突出したり秀でたり、目立つことをよしとしているような風潮が、その鎖を歪なものにしていることもあるかもしれない。

ここ数年、少し抱いていた思いが形になろうとしてきた。

”私の好きなことで、私ができることを、私以外の人のためにやってみよう”

kaolinecup、心を白く持てる間の時を届けるために。

先月、1歩踏み出した